海外放浪・昭和47年

1972年(昭和47年) 旅行・海外放浪日記


4月6日、横浜からソ連の客船でソビエト・ウラジオストックに向かう。3日間の船旅である。食事はフルコースなみ、夜はホールでショータイムなど快適な船旅であった。  20代の若者が多く、昼はデッキでいろんな人と話を交わしたり、ゲームをしたりして飽きることはなかった。
4月9日、昼過ぎにウラジオストックに着く。船から港を眺めるとやや無機質な建物が多く、暗い印象であった。ソ連の地で外国への一歩を踏み出した。下船後、倉庫のような税関で手続きをしたが、厳重であった。ここからシベリヤ鉄道に乗り換える。日本から多くの若者が列車に乗り込む。日本の寝台車と比べ広くゆったりとしていた。毎日が退屈なので列車をうろうろしたり、駅の待ち時間を利用して周辺を散策したり食事をしながら1週間後、モスクワに到着した。

      横浜港からソ連へ出港                   シベリア鉄道の地方駅で停車中のホームにて                           

 4月14日、モスクワのウクライナホテルに泊まる。30階建て高層の立派なホテルである。広々とした部屋であるが、備え付けのトイレットペーパーや石鹸など日用品は品質が良くない。近くのデパートで粉石鹸を買ったが糠状であった。それで久々に洗濯をした。翌日、地下鉄を利用して市内を散策して歩いた。日用品や着ているもの見る限り日本の方が裕福な感じがした。

           モスクワ赤の広場にて                モスクワ市内の露店

4月17日、モスクワから飛行機でフィンランド、ヘルシンキに向かう。
4月18日、ヘルシンキ空港からバスで市街地へ向かう。公園でテントを張り初めてのビバーク。翌日、朝から町をぶらつき、小さなレストランで昼食をとる。なかなか通じない。仕方なく前にいた人と同じものを注文する。イモのフライで喉を通らない。コーラを2本飲む。1本100円以上と日本の数倍、相当に高い。
公園に宿泊しながら市内をぶらつく。数日後ヒッチハイクとテント泊をしながら南下していく。食事はパンを中心とした行動食となる。途中、日本には少ない静かで落ち着いた町、そして平坦で緑が多い。田園地帯の村に新鮮さをおぼえる。
 ヒッチハイクで乗せてくれる車の確立が高く、1時間も待てばたいていキャッチできた。車の後ろにキャンピングカーを接続して走っているのが結構多いのにびっくりした。                         

 

         北欧の田舎町                       ストックホルム市内の港町

5月3日、ストックホルムに着く。町の中に結構日本人が見られる。市内でバスに乗る1kr25orと高い。北欧一帯はたばこが日本円で800円くらいと高いため、ホテルなどの灰皿の中から葉を集めたり、安いたばこの葉を紙を買って巻いて吸うようになった。

 数日間ストックホルムに滞在してから、再びヒッチハイクを始める。 ストックホルムの港町数台を乗り継ぎ、4台目で若い男と途中の湖畔でビールを飲みながら話をする。昼過ぎ、Jonleoyingにつき、食料を買って泊。

 北欧では牛乳の種類が多く、ほとんどが1㍑以上の紙パック入りである。日本にはないもので、初めてみるものであった。しかし、どれが普通の牛乳か解らず振ってみたりしながら選んでいった。運悪くヨーグルトに近いものがあったりして飲めなかったこともあった。(日本のヨーグルトは甘く、固形である)

 ヘルシングボーグで海が見える丘の公園でテントを張り、ぶらぶらしていたら、日本人の20代後半の女性と出会い彼女の家に行く。小さな子どもと50歳くらいのスウェーデン人のご主人がいた。数年前に日本を出て旅行中に知り合い結婚したという。数時間ほど話をして町へ出かけた。
5月10日、ヘルシングボーグから船でデンマークに向かう。ヘルシングボーグ税関で無税のたばこを20箱買って乗り込む。1時間ほどでコペンハーゲンに着く。
 夕方、市内の公園でテントを張っていたら警官に見つかり退去させられた。 その警官の案内で「USE IT」という簡易宿泊所にいく。10kr朝食付きとある。たくさんの若者がいて、ロックを12時過ぎまでやっていた。布団もなく、しかも2段ベットの上段で仕切りがないため、落ちる不安を抱え、ほとんど寝られなかった。
翌日、ユースホステル本部に行き会員の手続きをする。夕方、コペンハーゲンのユースホステルに行き宿泊をする。周りが芝と池に囲まれた別荘のような所である。日本人が数名とたくさんの世界の若者が泊まっていた。       

    スエーデンのヘルシングボーグ城塞より港町を         デンマーク・コペンハーゲンの王宮の前広場       

  朝、チボリ公園で休んでいたら、ストックホルムから来たという日本人にあい、しばらく話をする。2年間ヨーロッパを放浪しているとのこと。駅で別れ、しばらくしてストックホルムで会った日本人と再会。アパートを探しているという。斡旋所に出かけ1ヶ月100krで学生下宿をみつけた。2人でユースホステルにいく。数人の日本人がいた。夕食は自炊とした。     

 昼頃起き、黒パンとトマトジュースなどの食事をして、コペンハーゲンの町を毎日ブラブラしながら過ごす。夕方はユースホステルに戻り、自炊をし、その後たくさんの日本人と夜遅くまで話し込む。11時、経費節約のため、消灯前に近くの広い芝生にテントを張って就寝するという日をくり返した。

 イースターガードや王宮などをまわり、ユースホステル近くの「春巻きチャイニーズレストラン」で6.25krで野菜炒めライスを食べた。久しぶりの米食であったが日本とはちょっと違う。

 外国へ来てしばらく経つが、外国の風景も当たり前になってきた。日本と大きく違うのは住宅もそうだが郊外は緑だらけで山がまったくない。平坦な地形なので、トンネルや川も見当たらない。
 夕方7時にコペンハーゲンのユースホステルを出発し、バスで郊外に出る。8時頃からヒッチハイクをはじめ、2台で30㎞くらい進んだ。10時頃(まだ明るい)、そろそろテントを張ろうかと思っていたら、60過ぎくらいのおばあさんの車が止まり、良かったら家へ来なさいと言われ、その通りにする。国道4Eから外れ、郊外の田舎道(日本では考えられないが、これも舗装されている)を30分ほどして彼女の家に着いた。  遅い夕食を頂き、風呂に入り、久々にベットに寝た。
 
朝に彼女の車でインターまで乗せてもらいヒッチハイクを再会。しばらくしてオランダまで行く車をつかまえ、フェリーでドイツに渡り、アウトバーンを飛ばし、昼頃ハンブルクに着いた。早速ユースホステルにいき手続きをする。夜、町へ繰り出す。

 毎日、町に出かけ、夕方からはビアホールでビールを飲みながら、ドイツ人と話す。といってもほとんど通じないが、 ハンブルグ、裏通り
何となくわかる。

 ハンブルグからヒッチハイクに適したポジションまで1時間以上歩く。何度かインターを経由しながら、昼食をとっていたら、若い男女2人の車が止まった。BREMENに寄って、LEERから彼女の家に行きお茶を飲み、近くの彼の家で夕食を頂いた。その後、しばらく農場を案内してもらう。
 夜に彼女の家に行き洗濯をしてもらい 風呂に入る。そして、家族とビールを飲みながら雑談する。

 朝食をとった後、インターまで送ってもらい、昼前にオランダの国境を越えた。3台目のおばーさんはしゃべりっぱなしであった。5台目でアムステルダムに着いた。その乗せてもらった車が「children of god」という家に着いたのでそこの若者10人位としばらく話しこんだ。

 アムステルダムのユースホステルから毎日町へ出かける。時々道に迷いながら市内を散策。レンブラント家、アンネフランク家や美術館(ゴッホ)を見学。

 6月3日、アムステルダム郊外のインターチェンジへ2時間ほど歩く。ザックをおろした途端車が止まった。ハーグに向かう。

 ハーグのインターでヨーグルトとサイダーで昼食をとっていたら、車が止まり、ロッテルダムのユースホステルまで乗せてもらう。荷を置いて、港や臨海公園そして市内を散策。

 ロッテルダムから2台乗り継いでDORDECHTという町に着いた。古い町並みが何ともいえなかった。町はずれの小さなユースホステルに泊まる。

 

   アムステルダムのダム広場にたむろする若者             ベルギーの田舎町のお祭り会場・遊園地                       


DORDECHTから郊外に出て車を待つ。田舎道なのでなかなか車が来ない。1時間くらい待ってトラックに乗り、ブレンダーまでいく。そこから、さらに1時間ほどしてベンツの高級車に乗せてもらい、アントワープのユースホステルにいく。 ユースにいた日本人3人と市内を散策。

昼過ぎアントワープからヒッチハイクを始める。なかなか車がつかまらず、場所を変えながら待つ。しばらくしてブリュッセルに向かう車に乗せてもらい、駅で   アントワープの城の前にて降ろしてもらった。そこから迷いながらユースに向い、夕方につくことができた。そこに一人旅の日本人女性がいたので夜遅くまで話し込んだ。

市内を見学するが、他の町と変わり映えがしない。雨が降ってきたので公園の屋根がついたベンチで休んでいたら、頭が重くフラフラする。体の調子が悪くなってきた。しばらく休むことにした。
疲れがたまっていたので2日間、休息。

       ベルギー・ブルュッセル街角に建つ「小便小僧」

       
体調が回復したので朝にユースを出て郊外のインターまで乗せてもらう。ここで行き先を書いた紙を見せながら500メートルほど歩いていたら車が止まった。ブルージェ海岸のKNOKKLで久々に雨が降ってきた。 )
 傘をさしながらヒッチハイクをくり返しオーステンドまでいく。人なつっこいアメリカ人とビールを飲みながら談笑する。

6月10日、朝、天気は荒れ模様であった。オーステンドの港からフェリーでイギリスへ向かう。税関で手続き後、タバコ1カートン買って船に乗り込む。ドーバー海峡は凄く揺れた。ドーバーの町でユースホステルに泊まろうと近くのおばさんに道をきいたら、一緒についてきてくれた。近くでテントを張り泊。

 近くのインターからヒッチハイク。2時間以上待ってやっとロンドンまで行くことができた。市内を歩きまわってやっとユースホステルに着いた。くたくたの1日であった。
ロンドン市内を散策する。2階建バスに乗りながら王宮や寺院などをまわるが、ごく普通のまちである。

      ロンドンバッキンガム宮殿                      ウェストミンスター寺院

 

 

一週間ほど市内をブラブラしながら過ごす。下町的な印象である。
 夜、地下鉄で郊外まで出る。駅の部屋ごとエレベーターになっていて、そのまま地下ホームへ降りていく仕組みになっていた。最終駅の近くの空き地にテントを張り、泊。                         
 ロンドン郊外を早朝からヒッチハイク。5台ほど乗り継ぎスコットランドへ着く。若いドイツ人と一緒になり、雨が降ってきたので田舎町でビバーク。ヨーロッパの高校生が外国をヒッチハイクでまわっているのには驚いた。
 
6月18日、田舎町の公園で朝、周りの茂みから鳥の声がして目が覚める。ヒッチを始めたらすぐにつかまり、エジンバラに着いた。古い町でなかなか興味がもてる。

エジンバラ市内からスコットランド各地をまわる。古いヨーロッパ的な町並みが多かった。でも、寒かった。

  エジンバラからトラックに乗る。座席が高いところからなので見晴らしが良い。昼食後、女の親子ずれの車に乗せてもらう。いろんな食べ物を出してくれ、マンチェスターまでいく。雨が降ってきたのでビバーク。翌日、市内を散策。

   スコットランドの古城             カレー市役所(ロダン作・カレーの市民像)          


 国道からルートM6と書いて10分位して変なアイルランド人の車に乗る。途中何回もサービスエリアに入り、ビールを飲みながらロンドンへ。 地下鉄でホーランドパークに行く。雨が強くなってきたのでビバーク。

昼までのんびりして地下鉄でニュウクロスまで行き、ヒッチ。3台ほど乗り継いでモーターウェイまで行き泊。

朝、すぐに車がつかまり、ドーバーからフランスへ渡る。フランスのカレーに着き、市内を散策。その後、ボローグに行く。

6月25日、ボローグから一発で車がつかまりパリに着いた。
夜、町をぶらつきいていると広い公園なみの墓地を見付けた。
その小屋の平らな屋根に登ってビバーク。星がきれいであったが、さみしい夜であった。

朝、ユースホステルに行き手続きをする。愛想の悪い受付嬢であった。その後、市内散策。

ルーブル美術館を1日かけて見学。有名な絵が無造作に掲げられているのには驚いた。ただ、モナリザだけは厳重にしてあった。1週間ほどパリ市内、主に裏町を歩き回った。

7月2日、夕方、列車でMEAUXまで行く(7.5F)。駅前で買い物をして、川の畔で自炊、ビバーク。蚊が多く、ワインをまわりにまいて、残りを飲みながら休む。 エッフェル塔 町を散策後、EPEMMYまで行き、川べりにテントを張り、のんびり過ごす。

朝からヒッチハイクを始めたがなかなかつかまらない。それでも一日がかりでシャロンまで行く。(フランスはやりずらい)

シャロンからMETZまで行き、インターでビバーク地点を探したがどういう訳かトイレの跡だらけであった。9時過ぎにテントを張る。爆竹の音があちこちから聞こえていた。

       郊外の川辺でテント伯


 7月5日、7時からヒッチをやりだす。1時間ほどでドイツのMANNHEINまでいく車をつかまえた。おもしろいフランス人でカフェに寄ったりしながら半日ほど一緒にドライブをする。Mannhein市内を散策したり、買い物をしたりのんびりすごす。

翌日、ハイデルベルグまでの車をヒッチ。ライン川の畔の芝生でのんびり過ごし、ユースホステルへ。

ハイデルベルグ市内を散策。丘の城を見学し、酒蔵のワインを飲んだりして芝生で休憩。川辺で昼寝をしながら、久々にゆったりした気分になる

   ライン川からハイデルベルグ城を

     ハイデルベルク郊外にて                                        

7月10日、ハイデルベルグから日本人3人と一緒に若いドイツ人の車に乗せてもらう。途中のレストランでビールを飲みながら昼食をとり、快適に飛ばしていく。夜9時に国境を越え、ドナウ川沿いに進み、遅い夕食となった。そして、近くのキャンプ場にテントを張り、夜遅くまで騒いでいた。 翌日、ウィーンまで車で田舎道を進み、1時頃にウィーンについた。

ウィーン市内を散策。落ち着いた町並みである。ユースホステルでは毎夜、雑談をしながら話が盛り上がっていた。
ウィーンの町、特に郊外は森と川が絵に描いたように綺麗であった。

7月13日、ウィーンのStudent Trabellに行き学生証の交付手続きをして、学割でアテネまでの切符を25ドルで買う。駅に荷物を預けてビールとサンドイッチで昼食。町のマーケットで買い物をし、芝生でドイツ人のおばさんと雑談。「何処に泊まるのか?」と聞かれたので「ここだ」と言ったら20シリングくれた。

夜10時にウィーン駅を出発。デンマーク人(男)、オーストラリア人(女)とが同じ部屋。しばらく話をして、いすを横にして仮眠をとる。朝にユーゴスラビアに入る。駅で朝食・休憩。
 汽車から周りの景色を見ると、だんだん砂漠のような褐色となり、木がまばらに生えているようになった。

  ユーゴスラビアの途中駅にて                     ギリシャのパルテノン神殿にて

 夕方4時半にアテネ駅に着く。駅近くのホテルに泊まる。約1ドル。夕食はホテルそばの汚いレストランでとる。
翌日、郊外のユースホステルに行き、手続きをして市内を散策。ノミの市やアクロポリス、パルテノンなどをまわる。
ユースホステルの日本人数人とバスでピレウスの海岸へいき、ひと泳ぎする。
アパートの一室にあるキプロス大使館でビザをとったが、船賃が高いのでやめた。ユースホステルに行ったら日本人が数人いた ので夜遅くまで屋上で話し込む。皆おもしろい連中ばかりである。中心となっていたのが社長と呼ばれる29歳くらい、後はあだ名で、エロバン、ヨタロウ、インデアン、ボケ、ゲタなどである。

エジプト大使館に行き、ビザをとる。その後ユナイテッドアラブ航空に行き、30ドルでカイロ行きの航空券を買う。夕方、Y・Hで洗濯をして、屋上でひなたぼっこ。
エーゲ海に出かけたり、近郊をめぐりギリシャの人たちや遺跡、自然に触れる。
            
7月25日
 夕方6時過ぎにバスに乗り込み空港に向かう。どういう訳か一人しか乗っていない。夜の9時過ぎに発着。機内はアラブ系の人が多く、皆普段着である。窓からカイロの夜景や、水平線に太陽が沈み、夕焼けが見事であった。しかし、すぐ暗くなってしまった。
2時間ほどでカイロ空港に着いた。真夜中なのに飛行機から降りたらムッとするほどの暑さである。空港内にはいると両側に砂袋が積まれ、銃を持った兵士が物々しく警備をしていた。税関では80ドル出さなければ通れない。しかも、荷物検査等で30分以上かかり、夜の12時をまわっていた。空港内にいるのも不気味で、しかも治安が悪そうなのでタクシーでホテルに向かう。普通の住宅地で、薄暗く、夜中1時過ぎだというの人通りが多い。しかも、白や黒のワンピース調の民族衣装でちょっと不気味である。
翌日、昼過ぎにユースホステルを探しに出かける。まわりはアラビア文字で書かれていてさっぱり検討がつかない。途中で地元の若者と一緒に超満員のバスに乗って市の中心部まで行く。そこから、ユースホステルまでいったが金曜日なので休みということで引き返した。
夕方に今度は駅を探しに出かける。駅に着いたが何もないので引き返すことにした。途中サンドイッチみたいなものを食べる。30分以上歩いたが道が分からなくなってしまった。通行人にじろじろ見られ不気味である。暗くなってきたので引き返そうとしたら石をぶつけられる。目標物や現在地がつかめないので、しかたなくタクシーをつかまえホテルまで行く(数十円)。そこからホテル周辺やナイル川を散策し、ブドウを買った(30円)が山ほどあった。
9時過ぎに起きてユースホステルで手続きをする(30円)。JALに行き日本の本をしばらくぶりに見る。昼食はサンドイッチとマンゴージュースで20円くらい。午後に繁華街繰り出す。だいぶ町や地理に慣れてきた。中華料理の焼きそばと餃子を食べたがうまくはなかった。
ユースホステルで若い日本の女性がいた。欧州や北アフリカをまわってこれから南へ行くという。紀行文を雑誌社に送っているが採用になっていないらしい。彼女は「私はもう怖いものがありません」ということであった。南から北上してきたアメリカ人を交えて雑談。お互いの情報を交換する。


2時間ほどでカイロ空港に着いた。真夜中なのに飛行機から降りたらムッとするほどの暑さである。空港内にはいると両側に砂袋が積まれ、銃を持った兵士が物々しく警備をしていた。税関では80ドル出さなければ通れない。しかも、荷物検査等で30分以上かかり、夜の12時をまわっていた。空港内にいるのも不気味で、しかも治安が悪そうなのでタクシーでホテルに向かう。普通の住宅地で、薄暗く、夜中1時過ぎだというの人通りが多い。しかも、白や黒のワンピース調の民族衣装でちょっと不気味である。
翌日、昼過ぎにユースホステルを探しに出かける。まわりはアラビア文字で書かれていてさっぱり検討がつかない。途中で地元の若者と一緒に超満員のバスに乗って市の中心部まで行く。そこから、ユースホステルまでいったが金曜日なので休みということで引き返した。
夕方に今度は駅を探しに出かける。駅に着いたが何もないので引き返すことにした。途中サンドイッチみたいなものを食べる。30分以上歩いたが道が分からなくなってしまった。通行人にじろじろ見られ不気味である。暗くなってきたので引き返そうとしたら石をぶつけられる。目標物や現在地がつかめないので、しかたなくタクシーをつかまえホテルまで行く(数十円)。そこからホテル周辺やナイル川を散策し、ブドウを買った(30円)が山ほどあった。

 朝、9時過ぎに起きてユースホステルで手続きをする(30円)。JALに行き日本の本をしばらくぶりに見る。昼食はサンドイッチとマンゴージュースで20円くらい。午後に繁華街繰り出す。だいぶ町や地理に慣れてきた。中華料理の焼きそばと餃子を食べたがうまくはなかった。
ユースホステルで若い日本の女性がいた。欧州や北アフリカをまわってこれから南へ行くという。紀行文を雑誌社に送っているが採用になっていないらしい。彼女は「私はもう怖いものがありません」ということであった。南から北上してきたアメリカ人を交えて雑談。お互いの情報を交換する。

7月30日(日)
朝、ミュウジアムに行き古代の遺跡や展示物を見学。この中にも砂袋が積まれて不気味
である。なかなか興味をそそられる。1日じっくりと見る。ただ、2日かかっても見切れないだろう。昨日Y・Hで会った日本人に会う。
町をぶらつく。
 
7月31日(月)
BUS・NO.900に乗りビラミット近くの停留所まで行く(5PT)。しつこいほどラクダや物売りにつきまとわれながらビラミットまで行く。写真で見るよりみごとである。
 中に入る。狭く急な斜面の通路を登り部屋に出るが何もない。結局通路を通るだけだが結構面自い。どこかで迷路になっているのだろう。その
後、第2・第3のビラミットに行く。誰もいない砂漢の中をとぼとぼと歩く。ピラミットの中を見たり、上に上ったりしながら、しばし暑い中、静かな時を過ごす。まわりの廃虚を通りスフィンクスで休憩。
砂漢の中を歩いてBUSSTAT10Nでバスに乗りカイロ市内に戻る。町をぶらつき、中華レストランにてチャーハンとスープ(70円位)で夕食。あまり腹一杯にならない。Y・Hに戻ると、日本人2人(男)が新たに加わり4人となる。

8月1日{火)
日本大使館にいき新聞を見たり、町を散歩したりして過ごす。午後、日本人4人と話に花が咲く。夜、4人で夕食を食べに行く。

8月2日(水)
また、日本大使館で新聞を見たり、午後、近郊に出かけたりして過ごす。夜は遅くまで雑談
8月3困(木)
カイロ市内のモスクを見に日本人3人と出かける。大したことはないが、中で小さな声を出しても隅ずみまで聞こえる構造になっている。モハメットの何からしいが、くわしいことは解らない。
その後、ブルーモスクに行き、モスクの螺旋階段を上まで昇ったりしながら見学。午後、裏町をブラブラ通りながらY・Hに戻る。
 夕方にルクソール行きの汽車に乗る。満員で窮屈でアラブ人と一緒なので疲れる。床に新聞紙を敷いて座りながら寝る。夜行のせいもあるが、ほとんど寝れず。

    ピラミッド山頂手前から                   ナイル川にて地元ルクソールの若者たちと                      

8月4日(金)
朝にルクソールに着きY・Hに行ったら満員であった。駅前のホテルに20PTで泊まる。市内をぶらぶらするが、暑くて昼寝。

8月5日(土)」
自転車を借りて王と女王の墓を見に行く。ナイル川岸からハシケで向こう岸まで行く。現地人だけで満員に近い状態。10分ほど乗り、一路向かう。向こう側からゾロゾロとたくさんの現地人がくる。朝なのでそれほど暑くなく快適である。
 宮殿跡を見学し、最初女王の墓にいったが真っ暗でこうもりが飛んでいるだけである。そこから10KM近く走って王の墓に向かう。途中さびれた部落で休憩。草木も何もない褐色の丘の中を進む、途中誰もいない。坂道をのぼりるが、相当に暑くなってきたのには参った。そこには、大小60くらいの墓がある。入り口から洞穴をくぐり見学。いいのは5つ位である。見渡す限り草木が一本もなく褐色の岩だけの丘陵地帯である。
 その丘陵の一っの山に登ったが暑くて、腹が減って疲れた。最後にツタンカーメンをみて引き返す。
 帰りは下りなので楽だが、暑くてどうしようもない。川沿いの部落で現地の人と話をしたり、ナイル川で泳いだりする。

8月6ヨ(目)
Y・Hにいき手続きをする。荷物を預けてから朝食をとり、ナイル川沿いをトボトボと歩く。途中、小さな魚船をみっける。船の帆をテント代わりにしていた現地人2人としばし話をする。そして、4時問ほど船に乗せてもらう。紅茶を飲ませてもらったが川の水だった。向こう岸では洗濯や水浴びをしている。帰り、お礼に500円札を渡す。
 トボトボと歩いて荒涼たる廃虚にでる。なんとなく不気味さがある。太陽はカンカン照り、木がない褐色の世界である。夕日が沈む川岸でマンゴウを食べながらたたずむ。なんとも言えない旅情をさそう。
カイロで日本人にもらった本を読む。'(亀井勝一郎の愛の無清、川端康成の古都)

 

 

  ルクソールのツタンカーメン等の王の墓の集落               アスワン郊外のナイル川にて                                 

  ピラミットの発掘址                                   カイロ市内にて

 




1972年(昭和47年)放浪記録手帳にメモしたものをワープロで起こした。     

1月1日(土) 
 昨年の10月から勤めていた千葉・山崎パンでのアルバイトでパンの仕分け作業の夜勤(夜9時から朝の5時まで)が終わり、朝に正月のお祝いをする(大晦日から仕事で早めに終わった)。会社から酒とつまみがでた。寮に帰って風呂に入り、ちょっと休んでから朝の電車で養老渓谷に向かう。閑散と、そして寒々とした養老渓谷周辺を散策した後、日が暮れて寒くなったので駅前にテント(買ったばかりのツェルト)を張り、自炊作業にかかる。
1月2日(日)
  電車で西部田部落(つげ義治の作品にある)にいく。ガラガラの電車に乗り、無人の駅(小谷松)を降り、線路上を歩く。周りは家がなく茶色の世界である。途中鉄橋を渡り、田圃道を部落へ向かって歩く。川を渡るが、橋はなく、木が渡してあるだけである。寒々として、人の姿が見えない。どういう訳か旭川ナンバーのトラックがあった。作品にある神社・精神病院を通り、大多喜駅から大原に行く。荒天の無人の港にたたずむ。町外れにて泊。

         千葉県・養老渓谷・小谷松駅の線路                  西部田部落への簡易橋

1月3日(月)
大原から帰り、夕方に山崎パンで世話になった神谷さん(45歳?)の家に行った(千葉市小中台町581事業団地4ー26)。彼は北海道の炭坑の閉山でしかたなく仕事をしているとのこと。食事をし、小説の話などして過ごす。明日から仕事だ。

1月15日(日)
青森市内の「かねちょう武田」デパート時代の友人で自分と同じく1年で退職した平山節夫(品川区大井町14ー13)の家に遊びに行く。彼は学生結婚で東京の大学を卒業後、青森の実家に戻ってデパートに勤めたが、子供ができ、辞めて奥さんの実家に世話になっている。そこで、一晩やっかいになる。
1月20日(木)
山崎パンを退職する。柴又や江戸川沿いをぶらつく。

1月21日から24日・・寮にいた。毎日東京に出かける。

1月25日(火)
約3ヶ月勤めた山崎パン西千葉寮(鉄筋4階建て・4人部屋)を引き払う(荷物はほとんどない)。9時30分西千葉駅を出発する。上野をぶらつき12時33分上野駅を出発。13:50高崎着。雨が降ってきた。頭が重い。14:26に安中着。
安中市内を散策。閑散として、とてつもなく細長い町である。その西端に新島譲・菖邸宅跡と湯浅半月詩歌碑があった。雨なので駅に泊まる。

1月26日(水)
 9時22分・安中出発。天気快晴、車窓から妙義山や浅間山などの山々の展望が素晴らしい。10時9分、軽井沢の駅に降りる。さすがに、今ごろはひっそりとしている。別荘地へいく。林にかこまれ鳥が飛びかっていた。雪が少し残っている。少々はだ寒い。昼食後、小諸に向かう。12時12分小諸着。小諸城(懐古園)に行く。そこでは、笛を鳴らしている老人がいるだけであった。閑散とした城跡を歩き、町をぶらつき、上田に向かう。13時45分上田着。上田城を見学し、篠の井の古い町並みをぶらついて幕営。

1月27日(木)
8時10分篠の井を出発。9時16分松本着。松本城や市内を見学。11時、上諏訪に向かう。諏訪湖をぶらつき甲府に行く。

1月28日(金)
甲府から富士市に向かう。ここでは、昨年4月から7月まで高圧線の鉄塔の穴堀をしていた飯場(富士市岩本字滝戸・東海電気石田組)(本社・愛知県犬山市羽黒字東向畑)があったところである。1日3食つき3500円で月に10万円ほどの貯金ができた。高圧線鉄塔は入山瀬線で富士市の次の駅の入山瀬駅付近から岩本団地(公園)を通り、富士川を越え茶畑を過ぎると、車の通らない、それこそ山の中での穴堀作業であった。

1月29日(土)
熱海で昼食を食べたが、べらぼうに高い。熱海から船で伊豆大島に向かう。伊豆大島の早川氏(弘前大学・北鷹寮で5年間一緒・1年先輩、大島町字大久保体協センター)の家にやっかいになる。彼は年間在寮し弘前で1年間アルバイトなどをし、その後、両親が管理している体協の合宿所に帰り、現在大島の農協に勤めている。
 偶然、弘前から斉藤譲治(同じく弘大寮で6年生・同期)が来る。
1月30日から2月2日まで
3人で島めぐりをやったりして遊ぶ。

2月3日(木)
 3人で川崎の金井(同じく同期)のところに向かう(川崎市渡田新町・新町小,彼は5年で卒業後、川崎の小学校に勤めている)。その学校に行き職員室で七輪で同僚の教員と肉などを焼き、酒を飲み久々に話がはずむ。その後、銭湯に出かけ宿直室に泊まる。

2月4日(金)
 夕方、小野寺氏(同じく1年先輩)の家に向かう(東京都墨田区東向島6ー39ー12伊藤誠方)。狭いごみごみした下町。日がまったく当たらない4畳半の部屋に仏壇と本棚で占められ隙間がほとんどないところで3人は寝た。

2月6(日)から弘前の横浜宅(かねちょう武田デパートでの友人・弘前市森町13岩井方のアパートの一部屋)に身を寄せる。
 北鷹寮や島守武宅(弘前市森町5工藤薫方)、斉藤譲治宅、大川一夫宅(弘前市中野1ー13ー2)などを点々としながら生活をする。

3月22日(水)
 岩木山北口の赤倉の神社に島守(寮での同僚・7年生)と出かける。神社に泊めてもらう。管理人のおばさんと我々の他に年輩の無口な職人が1名いるだけで閑散としている。夜、酒を飲みながら歓談、あの職人(建具屋か)が酒が入った時だけ雄弁になるのにはビクッリ。まわりは雪、そして我々のほか誰もいない霊場。なんか修験者になった気分である。

3月23日(木)
雪に閉ざされ、訪れる人もない別世界である。島守は相変わらず作家気取りで小説の構想を練っている。
 朝、一人で赤倉沢登はんに出かける。天気はまあまあで、最初からアイゼンを付けピッケルを持ち、準冬山装備で出発。赤倉沢の雪渓を踏み締めて慎重に登る。最後は左側を巻くようにして詰める。
午後からはのんびりと休憩。また泊まる。

(島守や横浜のアパート,北鷹寮・大川宅などを点々と泊まり歩く)

4月20日(木)から1週間、岩木山の8合目の焼止小屋(無人)に泊まる。頂上や小屋付近からスキーをしたり、読書やぼけっとしたりして誰もいない日々を過ごす。22日に弘前大の山岳部の後輩が10人程来る。久しぶりに話がはずむ。



海外放浪記録

4月6日、横浜から船でウラジオストックに向かう。そこからシベリア鉄道でモスクワへ。豪華な料理と立派な鉄道・ホテルであったが、日常品があまりなかった。服装も貧しそうである。
モスクワでは地下鉄で移動するが、日本円で5円でどこでも行ける。赤の広場などをブラブラするが監視が厳しい。また水を自動販売で売っているが紙コップで飲むようになっている。所々で屋台が出ていて食料品を売っている光景は日本ではあまり見られない。

(北欧をぶらつく)

6月8日(木)
ストックホルム。頭が重い。公園にてテントを張り、ビバーク。夜になっても太陽がなかなか沈まない。とあるレストランで飯を食う。なかなか通じない。前にいった人と同じやつを注文する。イモの油揚げで、喉を通らない。コーラを2本飲む。1本100円以上である。

6月9日(金)
夜中雨、午前1時半、外は明るい。頭がフラフラする。夜中でも明るいのにはまいる。なかなか寝れない。朝(これも早い)太陽が出るとともに気温が急上昇する。テントの中は蒸し風呂である。夜中はものすごく寒い、そして明るい。今日1日ストックの町をブラブラする。明日からは本格的にヒッチをやろう。
 日本人がそれでもけっこう多くいる。バスに乗る。1kr25orであった。乗り物がとても高い。7krで飯を食う。明日はどうなるやら。

6月10日(土)(晴れ)
どうやら寝れる。朝5時起床。6時頃国道E4にでる。そこで、ヒッチ。1台目10km位、2台目20km位。3台目女性(25歳?)250km位drive。mjolbyまで4台目、若い変な男。途中の湖畔でビールを飲む。単語の羅列で話をする。jonleoyingに昼につく。腹が減り頭が重いのでテントを張りビバーク。12krで食料を買う。

6月11日(日)(小雨)
なかなか車がつかまらず待つこと2時間、やっと、ヘルシングボーグまでいく(車4台)。海の見える丘の公園にテントを張りブラブラしていたら、日本人の女性に会う。25歳位。彼女の家に行く。1・2歳位の子どもと50歳近くのスエーデン人のご主人がいた。彼女は数年前に日本を出て旅行中にご主人と知り合い結婚したということ。2~3時間ほど話してお暇する。町で買い物をする。(タバコ7kr90,マッチ25or、牛乳1/2L90or)

6月12日(月)
車2台、コペンハーゲンにつく。市内の公園で野宿していると警官に見つかる。警官は英語がつうじない。地図を見せて説明されるが分からない。連れていくという。5分ほどでinformationにつく。「USE IT」とある。10kr朝食付きである。身ぶり手振りで2人で話しをしそこまで行く。なんのことはない、タコ部屋みたいなところである。ロックとジャズを12時過ぎまでやっている。布団がなく寒くてほとんど寝れず。
6月13日(火)
昼頃起き出す。駅に行く。ユース本部に行き会員の手続きをする。なかなか気さくなおばさんであった。ユースにいき宿泊の手続きをする。町をブラブラする。

6月14日(水)
町に9時頃でかける。ティボリ公園でひなたぼっこをしていたら、ストックホルムから来たという日本人(25歳位)に会う。しばらく話しをする。2年間ヨーロッパを放浪しているとのこと。1週間程ブラブラしているらしい。駅で別れる。 駅から出たらストックホルムで会った日本人に会う。下宿探しらしい。下宿の斡旋所へいく。1カ月100krでstudent下宿をみつける。2人でY・H(ユース・ホステル)にいく。
 そこで、コペンハーゲンで働いている日本人にあう(25歳くらい)。今日、職探しにここへ来たとのこと。 公園で会った奴もY・Hに来ていた。Y・Hで自炊をする。じゃがいもにバター、魚の缶詰。

6月15日(木)
人魚像でroyal residence look で一緒の日本人に会う。夜チボリ公園にくりだす。Y・Hにて自炊。夜、11時頃テントにて就寝。(宿泊代がもったいないので近くの広い快適な芝生の公園にて)

6月16日(金)
昼頃起床。町へ買い物。夜11時頃までY・Hで話しをする。いろいろな日本人が10人前後来るので面白い。日本にいたらつき合うこともないであろう。
 しかし、何をしにここまで来ているのだろう。

6月17日(土)
イースターガードにくりだす。discodickでビールを飲む。一体、外国とはなんだろう。疑問。そして、そこへ来る日本人も。(外国だからこそ考えさせられるかも)
6月18日(日)
昼頃起きテントをたたみ黒パン・トマトジュースで昼食。町へいく。王宮を見て3時頃YHに帰りギター弾く。6時頃Y・H近くの春巻きチャイニーズLESTRANTにいく。 6.25Krで野菜炒めライスを食う。まあまあ食えた。しばし、麻雀をする。ちょっと、使いすぎたか。
 明日はヒッチを再開しよう。当前だが、外国の風景もここでは当たり前。珍しいのは最初のうち。しかし、郊外は緑だらけ。そして、山がまったくない。トンネルもなく、川もない。だが、人間どこも同じだと思う。

6月19日(月)
コペンを夜7時に出発。朝出発の予定が雨のため昼起床。Y・Hにいき日本人4・5人とギターで5時頃まで歌に興ず。china lestrantで夕食6.5kr。7時Y.Hを出発し、バスで郊外に出る。8時頃からなにげなくヒッチを始めた。1台目・2台目とも15Km位。
 そろそろテントを張ろうと思い10時までの予定(まだ明るい)で何となくやっていたら車が止まる。60歳過ぎのおばあさんであった。どこに泊まるかと聞かれ野宿だといったら、よかったら、家へと言われ。そのとうりにする。国道E4からはずれ郊外の田舎に出て30分家に着く。田舎道でも舗装されていた。遅い夕食を食べ久しぶりに、風呂に入り、BEDに寝る

6月20日(火)
E4まで彼女の車でいく。インターで日本人が2人、先にヒッチをしていたので後から遅れていく。ほどなく、オランダまでの車をつかまえて、フェリーでドイツに渡りアウトバーンを飛ばしハンブルグに昼ころ着く。Y・Hに泊まる(10DM)。夜、歓楽街にくりだす。眠い。
タバコ(10個)12DM。ソーセージ1.5DM

6月21日(水)
町に繰り出す。ボーリング場でビールを飲む。Y・Hで雑談。

6月22日(木)
昼、町を散歩。夜、場末にビールを飲みにいく。どこの酔っぱらいも面白いものである。マオ(毛沢東)とか。だが、言葉が通じない。

6月23日(金)
ハンブルグ市内を脱出するのに一苦労だった。ちょうどGOODな地点まで歩くこと1時間余り。しかし、10人ちかくの人が分岐点に立っていた。しょうがないので、AUTBARNをはずして次の分岐点までの車をつかまえる。そのインターチェンジでもつかまらず、昼食を食べていたら車が止まった。その車も次の分岐点までである。
 昼食を食べなおしてからSTANDING。少々雨もちらついて15分くらいで車が止まる。男女2名であった。BREMENをすぎ、LEER近くまで行く。途中、立食する。学生の婚約者同士であった。その彼女の家に行きTEEを飲み、彼の家で夕食を食べた。その家は農家で家のつくりがなかなか面白かった。そして、彼女の家にいって洗濯をしてもらい風呂に入って、BEERを飲みながら家族と雑談する。夜、3人で近くを散歩し、羽布団で熟睡する。
ALFRED POLLMAN 『BRAIN D 2951 HESEL /KRS.LEAR AURICHER STR.142 GERMANY』

6月24日(土)
その家を7時に起き朝食を食べ3人でLEARのインターチェンジまで送ってもらった。オランダの国境を越える。3台目のおばーさん、ともかくしゃべる。5台目でアムステルダムにつく。その車で『CHILDREN OF GOD』という家に行き、10人位の若者と宗教について話す。アムステルダム郊外にてテント。
6月25日(日)
Y・Hへ。夕方、夕食を買いに町へ行く。飾り窓は点々としていて面白みがある。ちょっと変わった感じの町。道に迷う。

6月26日(月)
ともかく歩いた。1枚の写真をとるのに2~3時間市内を歩く。レンブラント家、アンネ
・フランク家、近代美術館などへと歩く。DAM広場で一息。疲れたがやっと町に慣れた。

6月27日(火)
アムステルダム郊外にでるのに2時間位歩く。ともかく、歩いた。インターチェンジで1人待っていたのでザックを降ろしたとたん車が止まる。2人でHARGまで行く。HARGから郊外のインターチェンジまで1時間以上歩く。
 10人以上も並んでいたので草むらに腰掛けてヨーグルト・サイダーで昼食してなにげなくやっていたら車が止まった。ロッテルダムのY・Hまで乗せてもらい、中に入ったら満員であった。ロッテルダムで港と臨海公園をひとまわりしてからインターチェンジにいく。でたらすぐ、車がつかまる。歩く距離にすて10キロは歩いたろう。
 2台乗り継いでDORDECHTという小さな町につく。また、1時間くらい歩いてY・Hにつく。小さなY・Hであった。小さな方が面白みがある。町にでる。こういう小さな町の方がいい。古くくずれた感じがなんともいえない。ともかく、今日はよく動いた。また、頑張ろう。

6月28日(水)
DORDECHTから郊外に出、インターチェンジで待つ。1台目10キロ位。田舎のインターチェンジで待つ。なかなか車がこない。暇に任せてトランプ占いをする。1時間くらいでトラックに乗り、ブレンダーまで行く。
 そこで1時間くらい待ってベンツの高級車に乗り国境を越える。運転手はホモであった。アントワープまで行き、駅でアムステルダムであった女性に会い、市内見物をしてY・Hにいく。日本人4人と話しがはずむ。


6月29日(木)
アントワープY・H近くの公園に3人で出かけ、しばし食事・休憩。そこで別れ、1時頃からヒッチをやる。なかなかつかまらず、場所を変えてやり30分位でつかまる。40キロくらいでブリュッセルへ。駅から道に迷いながらもY・Hにつく。
 そこで、1人でヒッチをやっている日本人女性と話しをする。アフリカ・ギリシャなどを回り、北へ向かうということであった。5時から10時すぎまで話がはずむ。共通点POEM・HARTであろう。彼女に負けず頑張ろう。
 きたないY・Hであった。なんかスペイン風な感じ。

6月30日(金)
 市内見物。他とたいして変わりはない。雨が降ってくる。公園の屋根がついた所で昼寝。寒い、寝れず、頭が重い、フラフラする。体の調子がおかしい、意識はしっかりしている。早めに寝よう。

7月1日(土)
9時頃Y・Hを出る。町外れでやったがつかまらず郊外のインターまで乗せてもらい、インターについたら5組くらい先客がいた。とりあえず、行く先を書いた紙を見せながら500M程歩いたら一発であった。
 ブルージェ海岸のKNOKKLまでいったら雨が降ってきた。傘をさしてヒッチ。3台を小刻みに乗り継いでOSTENDまでいく。変な米人とビールを飲みながらしばし、談笑する。例によって例の調子。

7月2日(日)
 OSTENDからフェリーでENGLANDへ行く。タバコ1カートンを買う。ドーバー海峡はすごく揺れた。ドーバーのY・Hに泊まろう町を散歩。町のおばさんと話しをしながらY・H前までくる。そこで、カンタバリ-までいく車に乗せてもらう。Y・Hは満員だったので近くでテントを張る。

7月3日(月)
 カンタバリーよりインターまでいく。先客2組、2時間半待つ。やっと、つかまりロンドンへ。そこから、Y・Hまで歩くこと2時間。クタクタだ。しかし、FULL。
 4軒目のY・Hにいきやっと泊まる。久しぶりに日本人と話しをする。

7月4日(火)
 市内を見学。市内見物はつかれる。何もない町だ。夜、郊外までMETROで最終まで乗る。駅の部屋ごとエレベーターになっていてそのまま地下へ。最終駅の近くの空き地でテントを張り、いもを煮て食べ、泊。

7月5日(水)
 ロンドン郊外を朝たち北上する。5台快適に乗り継ぎスコットランドへ。そこで、変なドイツ人と一緒に田舎町でビバーク。雨が降ってきた。また、いもをにて夕食。

7月6日(木)
 まわりのしげみから鳥の声がする。ヒッチをはじめて1台でエジンバラにつく。市内見学。古い町で、CATHLEなどなかなかおもしろかった。ただ、寒かった。
買い物をする。いも・ベーコン・スープなど。洗濯をし、手紙を書く。

7月7日(金)
 2時間近くまってトラックをつかまえる。高いところからなので、なかなかおもしろい。昼食後、10分位で女の親子ずれに乗せてもらう。いろいろな食べ物を出してくれ、マンチェスターまで。雨が降ってきたので、ぶらぶらしてビバーク。

7月8日(土)
テント場より10分位歩いて国道に出、ROUTE M6と書いて10分くらいで変なアイルランド人と途中何回もサービスエリアに入りビールを飲みながらロンドンに入る。食料を買いSUBWAYでホーランドパークに行く。Y・HはFULL。近くでテントを張る。雨強し。
 
7月9日(日)
 昼まで寝ていて、飯を食い、NEWCROSSまでMETROで行き、そこからヒッチ。3台乗り継いでモーターウェイ手前。なかなか、つかまらず2時間まってもだめなのでビバーク。疲れた。

7月10日(月)
 朝、ビバーク地点からヒッチ。2~3分でつかまる。10Km位。そこで、すぐドーバーまでつかまえフェリーでフランスへ渡る。
カレーに到着。シティホール前のカレーの市民などを見学後BOULOGEまでつかまえ、そこからパリまで1発。ヒッチした場所から、すぐインターであった。そこには20人くらいヒッチ者がいたが運が良い。
 しかし、パリについてY・Hは満員。町をぶらつきながら公園を探したが見つからず、墓地のなかの小屋の屋根に登ってビバーク。星空がきれいだったが寂しい。寝つかれず。

7月11日(火)
朝、Y・Hに行き手続きをする。あいそうの悪い受付女。その後、市内見物。寝れない生活は疲れる。明日の晩ははいかにせむ。ともかく、今日は歩いた。

7月12日(水)
昼頃まで寝て、Y・Hで日本人と話をし、出かける。ルーブル美術館を半日かけて鑑賞。夕方、MEAUXまで汽車でいく(7.5F)。
 駅前で買い物をして、川のほとりで自炊、ビバーク。 蚊が多く、ワインを周りにまき、残りを飲む。

7月13日(木)
周辺を散策後、昼前にMEAUXをSTART。1台目EPEMMYまで。昼食後2時間ほどやったが、1台もつかまらず。腹立たしいやら、悔しいやらで止めた。
 川べりで寝っころがってテントを張り寝る。

7月14日(金)
7時頃からやりだす。後からきたフランス人に先を越される。悔しいやらで唖然として立ち尽くす。10時頃、女の人で数キロ。11時頃2台目、やっと、シャロンまで行く。そこで、すぐ3台目がつかまった。昼食後、2時間以上立って、後からきたフランス人にまたまた先を越される。悔しさで地図を地面にたたきつける。
「白い花が咲いてた」をただ歌う。3時頃4台目(夫婦)でVERDUMまでいき、町外れのインターまで乗せてもらうが、なかなかつかまらず。ともかく、フランスはやりにくいが、どうした訳かヒッチの連中が多い。疑問。
 1時間ほどで5台目、若い女の娘、METZまで行く。インターまで送ってくれた。そこで、6時から8時頃までやったが駄目。ビバーク地点を探したがなかなか見つからず、いいところはどういう訳か全部糞場になっていた。1時間程ぶらついて、9時すぎにテントを張る。パリ祭らしく爆竹の音が聞こえた。

7月15日(土)
7時頃からヒッチをやり出す。1時間程でドイツのMANNHEINまでいく若い男の車をつかまえた。途中CAFEに寄りおごってもらう。なかなか、おもしろいフランス人である。1台で200Km以上移動したことになる。
MANNHEINをブラブラシし、買い物をして昼食をとる。そして、30分ほど歩いて何気なくやっていたら、HEIDELBERGまでの車をつかまえた。ドイツはやりやすい。HEIDELBERGの市内見物をしてライン川沿いに1時間程下る。川沿いの芝生で寝ころびながら日記を書いている。
夜、Y・Hでしばし日本人と談笑する。

7月16日(日)
ハイデルベルグ市内を日本人のヒッチハイカー(ずっこけ連中4人)と散歩する。丘のCASTELに行き、城の酒蔵のワインを飲んで芝生で休憩。その後、川辺の景色の良いところで写生をしたり、昼寝をしたり久々にのんびりする。
夜、Y・Hで雑談に興ず。

7月17日(月)
4人でインターまで歩く。荷物は車で来ていた日本人に運んでもらう。刺すような暑さの中をしばし、待つ。すると、ウィーンまで行く車をつかまえる。スイスに行く予定をすぐ覆しウィーンまでいく。アウトバーンのインターで先に行った2人を乗せてずっこけトリオは出発する。途中のレストランで昼食。ビールは最高にうまい!。その後、オーストリア手前でドイツ人がビールをおごってくれた。
夜、9時頃国境を通過し、ドナウ川沿いに進み、遅い夕食をドイツ人のおごりで食べる。そして、キャンプ場でテントを張り夜遅くまで騒ぐ。ともかく、おもしろいドイツ人とずっこけトリオは1日楽しくすごす。

7月18日(火)
 朝、しばし、ゆっくりすごしてからWIENに向かって進む。田舎道を進み、AUTOバーンを走り、1時頃WIENにつく。Y・Hは満員。キャンプ場に連れて行ってもらい、そこでお互いの健闘を祈って分かれる。
 テントを張り昼食(スパゲッティ・イモのスープ煮)。ずっこけトリオは町をブラブラし、夜10時頃まで雑談、盛り上がる。

7月19日(水)
朝9時頃起きスープとパンで朝食。その後、STUDENT TRABELLに行くために町に繰り出す(spravka証明書)。ウィーン郊外は緑と小川が絵に書いたように綺麗。
 町で学生証の手続きをし、アテネまでの切符を25$で買う。駅に荷物を預けてから町を見物。ビールとサンドイッチで昼食。公園の綺麗な芝生で休憩。町のマーケット(朝市みたいな)で買い物をし近くの芝生でdiner。
 wienのおばさんとしばし雑談(赤軍の話など)。「どこに泊まるの」と聞かれて、「ここだ」と言ったら、20シリングくれた。
 歌を歌いながら駅までブラブラと戻る。
 
7月20日(木)
昨日の夜10時wien駅を発。デンマーク人(男)オーストリア人(女)と日本人4人、計6人が同じ部屋。椅子を横にして雑談後、ざこ寝、仮眠をとる。
 朝、ユーゴスラビアに入る。駅でしばし朝食・休憩。デンマーク人はビザなしで降ろされる。退屈な景色の中を汽車は走る。

7月21日(金)
ユーゴを汽車は走りギリシャに入る。風景はがらりと変わる。砂漠のような色に木がまばらに生えている。ユーゴはなんか貧しさを感じる。
 夕方4時半にアテネに着く。駅近くのホテル(350円位)に泊まる。近くの汚いレストランで飯を食い、ビールを飲む。ともかく、アテネだ。

7月22日(土)
 朝、郊外のY・Hに行き手続きする。市内を夜まで散策。

7月23日(日)
 ノミの市にいき、暑い中を見て回るが、たいしたものがない。その後、アクロポリスやパルテノンに行き、ひとまわりして、バスでピレウスの海岸に行き見学・散策後、地中海でひと泳ぎして帰る。夜のアテネの町をはいかいする。

7月24日(月)
 キプロス大使館(アパートの1室みたい)に行きビザをとり、STUDENT TRAVELLに行く。船の手続きをしたら3200△Xだと聞いて止めた。Y・Hに帰って全日本柔道チャンピオンという日本人と話をする。中近東、東南アジア、モロッコなどをまわっているとのこと。情報を仕入れ、参考になる。近くの食堂にいき夕食。厨房に入り注文する。その後、夜遅くまで5~6人の日本人と屋上でしゃべる。時間のたつのも忘れる。あだ名ができる。取り仕切るのが29歳位の社長そして、エロバン・ヨタロウ・インデアン・ボケ・ゲタなど。自分は北大。皆おもしろい奴ばかり。

7月25日(火)
エジプト大使館に行きビザをとり、ユナイテッド・アラブ航空で往復60$でカイロ行きの航空券を買う。町をブラブラし(暑かった)、Y・Hで洗濯をして屋上で日向ぼっこ。

7月26日(水)
日本人男(4)女(2)でエーゲ海岸へバスで行き、見学や海水浴などをして楽しむ。地元の人とも交え、遊ぶ。
 さすが、夜になると不安と絶望感の入り交じった感じになる。

7月27日(木)
夕方までY・Hでブラブラして6時頃バスに乗り込む。ハイデルベルグ・アテネで会った日本人とお互いの健闘を祈り、見送られて一路空港へと出発。シンタクマより空港行きのバスに乗り込む。どうした訳か乗客は自分1人。空港にて家・寮・小野寺氏に絵葉書を出す。夜9時過ぎFLY。アラブ系の人が多い。皆、普段着である。夜景や海に沈む太陽が綺麗だった。だが、すぐに暗闇になった。2時間ほどでカイロ空港に着く。真夜中なのに飛行機から降りたらムットする暑さである。砂袋が両側に積まれ、銃を持った兵士が立つ物々しい警備の中を進む。80$出さなければ税関を通られない。荷物の検査など解放されるまで30分以上かかり12時を回っていた。治安が悪いのでホテルまでタクシーで行く。1時頃だというのに、歩いている人が多い。白または黒のワンピース調でちょっと不気味。ともかく、疲れたのでシャワーに入りダブルベットで寝る。ホテル代500円位。

7月28日(金)
 昼頃起き、Y・Hを探しに出かける。まわりは全部アラビア文字で書かれているのでさっぱり検討がつかない。途中で親切な地元の少年に会い超満員のバス(行き先が読めず)で市の中心部まで出る。そこから、Y・Hにいったが金曜日は休みであると聞いて、2人でホテルまでいって、お礼を言って別れる。
 ひと休みして今度は駅を探しに出かける。何となく不気味である。通行人にじろじろ見られる。駅についたが何もないので小休止して帰る。途中サンドイッチみたいなのを食べる。30分以上歩いたが道を失い、暗くなったので引き返そうとしたら石をぶつけられる。暗くなるとますます不気味である。目標物や現在地がつかめないので、しかたなくタクシーを拾いホテルまで行く(50円位)。ホテル周辺やナイル川沿いを散歩し葡萄(マスカット)1袋を30円ほど買ったが、山ほどあり食べきれなかった。(夕食がわり)

7月29日(土)
9時過ぎに起きて、Y・Hに行き手続きをする(1日30円くらい)。JALに行き日本の本をしばらくぶりに見る。昼食はサンドイッチとマンゴージュースで30円位。その後、Y・Hでひと休みして繁華街に繰り出す。だいぶ町や地理に慣れてきた。中国料理屋で焼きそばと餃子を食うが、あまりうまくなかった。
 Y・Hに帰ったら日本の若い女の人がいた。欧州や北アフリカを回ってこれから南へ行くとのこと。紀行文を雑誌社におくっているが、採用にはならないらしい。
彼女は「私はもう怖いものはありません」ということであった。また、南から来たアメリカ人を交えて話をし、お互いに情報交換をする。3人でしばし雑談。

7月30日(日)
朝、MUSIAMに行き古代の遺跡や展示物を見学。この中にも砂袋が積まれて不気味である。なかなか興味をそそられる。1日じっくりと見る。ただ、2日かかっても見切れないだろう。昨日Y・Hで会った日本人に会う。
町をぶらつく。

7月31日(月)
 BUS NO.900に乗りピラミット近くの停留所まで行く(5PT)。しつこいほどラクダや物売りにつきまとわれながらピラミットまで行く。みごとなものである。
中にはいる。狭く急な斜面の通路を登り部屋に出るが何もない。結局通路を通るだけだが結構面白い。どこかで迷路になっているのだろう。その後、第2・第3のピラミットに行く。誰もいない砂漠の中をとぼとぼと歩く。中を見たり、上に上ったりしながら、しばし暑く静かな時を過ごす。まわりの廃虚を通りスフィンクスで休憩。
 砂漠の中を歩いてBUS STATIONでバスに乗りカイロ市内に戻る。町をぶらつき、中華レストランにてチャーハンとスープ(70円位)で夕食。あまり腹一杯にならない。Y・Hに戻ると、日本人2人(男)が新たに加わり4人となる。

8月1日(火)
日本大使館にいき新聞を見たり、町を散歩したりして過ごす。午後、日本人4人と話に花が咲く。夜、4人で夕食を食べに行く。

8月2日(水)
また、日本大使館で新聞を見たり、午後、近郊に出かけたりして過ごす。夜は雑談。面白かった。

8月3日(木)
カイロ市内のモスクを見に日本人3人と出かける。大したことはないが、中で小さな声を出しても隅ずみまで聞こえる構造になっている。モハメットの何からしいが、くわしいことは解らない。
 その後、ブルーモスクに行き、モスクの螺旋階段を上まで昇ったりしながら見学。午後、裏町をブラブラ通りながらY・Hに戻る。
 夕方にルクソール行きの汽車に乗る。満員で窮屈でアラブ人と一緒なので疲れる。床に新聞紙を敷いて座りながら寝る。夜行のせいもあるが、ほとんど寝れず。

8月4日(金)
 朝にルクソールに着きY・Hに行ったら満員であった。駅前のホテルに20PTで泊まる。市内をぶらぶらするが、暑くて昼寝。

8月5日(土)
自転車を借りて王と女王の墓を見に行く。ナイル川岸からハシケで向こう岸まで行く。現地人だけ満員に近い状態。10分ほど乗り、一路向かう。向こう側からゾロゾロとたくさんの現地人がくる。朝なのでそれほど暑くなく快適である。
 宮殿跡を見学し、最初女王の墓にいったが真っ暗でこうもりが飛んでいるだけ。そこから10KM近く走って王の墓に向かう。途中さびれた部落で休憩。草木も何もない褐色の丘の中を進む、途中誰もいない。坂道をのぼり、暑くなってきたのには参った。そこには、大小60くらいの墓がある。入り口から洞穴をくぐり見学。いいのは5つ位である。見渡す限り草木が一本もなく褐色の岩だけの丘陵地帯である。その丘陵の一つの山に登ったが暑くて、腹が減って疲れた。最後にツタンカーメンをみて引き返す。
 帰りは下りなので楽だが、暑くてどうしようもない。川沿いの部落で現地の人と話をしたり、ナイル川で泳いだりする。
夕方、ASWANに向かう。アスワンの駅からホテルまで優雅に馬車に乗る。ホテルにて泊まる。

8月6日(日)
Y・Hにいき手続きをする。荷物を預けてから朝食をとり、ナイル川沿いをトボトボと歩く。途中、小さな魚船をみつける。船の帆をテント代わりにしていた現地人2人としばし話をする。そして、4時間ほど船に乗せてもらう。紅茶を飲ませてもらったが川の水だった。向こう岸では洗濯や水浴びをしている。帰り、お礼に500円札を渡す。

8月7日(月)
今度は逆に遡った。トボトボと歩いて荒涼たる廃虚にでる。なんとなく不気味さがある。日がカンカン照り、木がない褐色の世界である。
 夕方、絵はがき(大川・佐々木・田浦)を書く。そして、夕日が沈む川岸でマンゴウを食べながらたたずむ。なんとも言えない旅情をさそう。
カイロで日本人にもらった本を読む。(亀井勝一郎の愛の無情、川端康成の古都)

8月8日(火)
アスワンから船でスーダンのWADIHALFAへ向かう(2PT)。3日間水がないのでポリタンに水を10キロ詰める。

 WADIHALFAから汽車でATBARAを通りKHARTOUMに着く(80ドル)。ここでエチオピアのビザを取り汽車でKASSALAに着く。KASSALAから飛行機でエチヲピアのASMARAGIへ(30ドル)。